新製品・新技術開発失敗物語(2)

〜発明王エジソンの失敗〜

  

  生涯84年間にトーマス・アルバ・エジソンは1,093の特許を取得している。「小さな発明は10日に一つ、世の中をびっくりさせるような発明は半年に一つはする」と豪語しており、実際にそれを実行した。エジソンの誰でも知っているもっとも有名な発明といえば白熱電球だろう。当時の京都の八幡村から取り寄せた竹を材料にして炭化したフィラメントを利用したのは有名なエピソードである。八幡村は現在、京都府八幡市になっているが、市の紋章には竹があしらわれている。また市内にある石清水八幡宮にはエジソン記念碑がある。

  

  エジソンの電球にかけるエネルギーはすさまじく、白熱電球のフィラメント材料として木綿、木材など6,000種類もの材料を試したそうである。色々な材料のうち、竹が最も寿命が長く、200時間も輝いたので最適の竹を探すことにした。1,200種類の竹が全世界から集められたが、日本の八幡村のマダケが一番成績がよく、約2,450時間も灯り、最長だった。こうして、エジソン電灯会社の電球は八幡村から輸出された竹を材料に製造されることになった。明治の初期の話しである。 余談だが、発明に没頭するエジソンは睡眠時間を無駄な時間と考えていたようだ。「人間の全睡眠時間を減らせば能力は増大する。将来の人は、現在の人よりもずっと睡眠時間が少なくなるだろう」とまで語っている。白熱電球はまさに人類の睡眠時間を少なくする道具であり、彼の理想を実現するものだったのである。 

  

  こうしてエジソンは白熱電球を発明したのだが、事業化の方はうまくいったのだろうか。一般の家庭で電球を灯すためには電気が必要であるが、当時はまだ電気が供給されていなかった。電球を普及させるのは電線を引いて電気を供給する必要があった。エジソン電灯会社は直流で電気を送電、供給していた。これに対して、ライバル会社であるトムソン・ハウス社やウエスティングハウス社は交流で送電した。直流だと、電圧降下のために半径3キロ圏内しか送電できなかった。交流は高圧で送電し、どこでも変圧器で100ボルト近辺に落とすことができる。便利さを考えれば、直流送電は交流送電にかなうはずもなかった。

  

  しかし、エジソンは電球に電気を供給する方式として直流方式をかたくなに主張した。それだけではなく、高圧交流送電がいかに危険かを示すためにイヌやネコを対象に交流の高圧電気で感電させる残酷な実験を数多く実演したりした。これにはウエスティングハウス社も抗議した。しかし、エジソンは頑として自分の信念を変えなかった。 

  

  現在、全世界の電気はエジソンが反対した交流方式で供給されている。アメリカの巨大電機企業GE社は、発足当時は、エジソン・ジェネラル・エレクトリック社だったが、エジソンの直流方式に固執する態度にあきれて、会社からエジソンの名前をはずしたくらいである。白熱電球の折角の発明も事業化ではエジソンに何ももたらさなかった。「私は白熱電球を発明したが利益は何もなかった」と彼は述べ、白熱電球の研究から一切手を引いている。エジソンは晩年、これが大きな失敗であったことを認めている。発明自体は偉大であってもその普及には様々な障害があることをこのエピソードは物語っている。

(参考文献:「エジソンの白熱電球」立命館大学経営学部・兵藤友博教授H.P、「図説エジソン大百科」山川正光著 オーム社)

 


鞄本アプライドリサーチ研究所 研究調査部 佐川 峻(たかし)

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